【魚コラム 第5話】

夕暮れどき、潮の匂いをふっと感じることがあります。

海のそばでも、街中でも、

その香りはまるで昔の夕食の記憶を静かに呼び起こすようです。

その奥に見えてくるのは、

光を帯びた細い魚の姿。

イワシ。

手のひらに軽くのる小さな体、

指で触れただけで崩れてしまいそうな柔らかさ、

そして海の中で群れとして揺れ動く銀色の光。

 

イワシは、力強さで人を惹きつける魚ではありません。

けれど、その 『小ささ』 と 『繊細さ』 が、

日本の食文化と暮らしを静かに支え続けてきました。

華やかでもない。

主役になることも多くはない。

 

それでも、「ふつうの日の味」 をつくってきた魚。

この一匹の小さな存在が、家庭の食卓、漁村の暮らし、そして海の流れとともに

どれほど長い物語を紡いできたのか。

ここでは、その静かな軌跡を辿ります。

 
いわし

1.イワシという名前に宿る感性
~『弱い魚』を、愛し、見守ってきた日本人~

「イワシ」という言葉の語源には諸説あります。

  • 『弱い魚』を意味する「ヨワシ」
  • 腐りやすい特徴から「卑し(いやし)」に由来する説
  • 大量に獲れる様子から「卑賤(ひせん)」の『卑』が転じた説

 

どれも、イワシの小ささや壊れやすさと深く関わります。

イワシの体は、驚くほど繊細です。

網から揚げたばかりのイワシは、衝撃に弱く、

少し扱いを誤ると身がほろりと崩れてしまうこともあります。

昔の人は、その姿を見て、

「弱い魚」

「壊れやすい魚」

という印象を名前に映し込んだのかもしれません。

 

けれどこれは決して見下した言葉ではなく、

弱い存在をていねいに扱い、大切に生かす

という、日本人らしい美意識の表れでもあります。

名前の中に宿るのは、海とともに生きた人々のやさしい眼差しなのです。

 

2.イワシの旬はいつ?

~最も身近で、最も季節に寄り添う魚のひとつ~

イワシの旬は種類によって少し異なります。

  • マイワシ:初夏〜夏(一般に6〜8月頃)
  • ウルメイワシ:秋〜冬
  • カタクチイワシ:春〜夏

 

マイワシは、夏に向けて脂を蓄えていき、

旬の時期には丸みを帯び、皮の下にしっとりと脂が走ります。

焼けば香ばしく、刺身ならほのかな甘みがふわりと舌に広がる。

 

そして、秋口に向かうと、また少し違った細身の姿に変わり、味も軽やかになります。

サンマのようにニュースで“初物”が騒がれる魚ではありませんが、

イワシはひっそりと、けれど確かに季節を映す魚です。

 

そのさりげなさが、イワシらしさとも言えます。

3.群れで生きるという知恵

~海の中を銀色の光が走る~

イワシの大きな特徴は、常に群れで生きる ということ。

数百、数千、時に数万という単位で群れをつくり、

一匹では見えない動きを、群れ全体の『波紋』で表現します。

 

海の中を太陽の光が差し込むと、

無数のイワシの鱗がその光を反射し、

海中に銀色の帯が走る。

その光景は、大自然が描く『動く絵画』のようです。

群れで生きる理由は、外敵から身を守るため。

小さな体は捕食されやすい。

けれど群れで動くことで、捕まりにくくなる。

弱さを補うために生まれた知恵が、

結果として美しい光の景色をつくり出す。

 

イワシが魅せる群れの動きは、自然が生んだ調和そのものです。

 
イワシの群れ

4.イワシと発酵 ― カタクチイワシが生んだ「日本の味」

~『弱い魚』がつくった、唯一無二の旨み~

イワシほど、発酵文化とのつながりが深い魚は多くありません。

特に カタクチイワシ は、日本の味の基盤をつくってきた存在です。

  • 煮干し
  • 田作り(ごまめ)
  • 魚醤(いしる・しょっつる)
  • アンチョビのような塩蔵文化
  • 味噌汁・麺つゆなどのダシ文化

 

カタクチイワシから生まれた出汁は、

日本の汁物、煮物、麺文化の根幹を支えてきました。

壊れやすい魚だからこそ、塩や火や発酵の知恵によって『命を延ばす方法』が発達した。

弱さが文化を生み、繊細さが味をつくった。

これはイワシだけが持つ特別な物語です。

 

5.変動するイワシ資源が伝えてくれるもの

~『興亡をくり返す魚』に映る、海の大きな呼吸~

イワシには、ほかの魚と比べても際立った特徴があります。

それは 資源量(獲れる量)の増減が、とても大きく揺れ動くこと。

ある年代には海が銀色に光るほど群れが押し寄せ、またある年代には、驚くほど姿を見せなくなる。

こうした大きなサイクルは、昔から「イワシの興亡」と呼ばれてきました。

 

この不思議な増減は、海水温や海流の変化、プランクトンの量、黒潮・親潮の強さなど、

海の環境が少し変わっただけでも影響を受けやすい性質に由来すると考えられています。

もちろん、他の魚も海の変化の影響は受けます。

 

その増減はしばしば『海が今どう呼吸しているか』を示す手がかりになります。

ある年は大ぶりで脂の乗った個体が多い。

ある年は小型中心で、軽やかな味わいが前に出る。

その揺らぎの奥には、遠くの海で起きている大きな変化が静かに重なっています。

イワシの姿は、海から届く「大きな呼吸の余韻」。

食卓に並ぶ一尾にも、海の時間がそっと映り込んでいるような気がします。

 

【イワシ資源の大きな流れ】

  • 1980年代後半〜: マイワシの大豊漁期。年間漁獲量は数百万トン規模に達していたと言われています。
  • 1990年代後半〜: 急激な減少期。漁獲量が数十万トン、あるいはそれ以下にまで落ち込む年もありました。
  • 2000年代以降 : マイワシに代わり、カタクチイワシの漁獲が増加傾向にありました。
  • 2010年代以降 : 再び潮目が変わります。近年ではマイワシの漁獲量が数十万トン規模へと回復の兆しを見せています。

 

このような劇的な増減は、数十年単位でくり返されてきた、と言われています。
 

【参考文献】水産庁:「令和5年度 水産資源評価結果(マイワシ太平洋系群)」

 

6.イワシの栄養価

~小さな体に詰まった、海のエネルギー~

イワシは小柄ながら、栄養価が非常に高い魚として知られています。

【マイワシ 可食部100gあたり】

  • エネルギー:156kcal
  • たんぱく質:19.2g
  • 脂質:9.2g
  • カルシウム:74mg
  • マグネシウム:30mg
  • 亜鉛:1.6mg
  • ビタミンB6:0.49mg
  • ビタミンB12:16μg
  • ビタミンD:32μg

【参考文献】文部科学省「日本食品標準成分表(八訂)」

 

特に カルシウムとビタミンD が豊富なのは大きな特徴。

梅煮や煮干しなど、骨ごと食べられる料理が多いイワシは成長期の子どもから高齢者まで、幅広い世代の健康を支えてきました。

また、青魚を代表する DHA・EPA などのオメガ3脂肪酸を含み、 血流や脳の働きをサポートする成分として注目されています。

 

『日常の魚』 でありながら、栄養面では驚くほど力強い。

そのギャップも、イワシの魅力です。

 
元気なイワシ

7.庶民の食卓を支えてきた魚

~高価ではないが、価値は深い~

イワシは、昔から庶民の味を支えてきた魚でした。

鮮度落ちが早いという弱点は、

逆に「地元で獲れたてを食べる文化」や

『保存の知恵』を育ててきました。

  • 炙り
  • 南蛮漬け
  • 梅煮
  • 団子汁
  • つみれ
  • 干物

 

どれも家庭料理の記憶に深く根づいているものばかり。

豪華な料理ではない。

けれど、確かに日々を支えてきた味。

イワシは、日本の家庭の「体温」を守ってきた魚と言ってもよいでしょう。

 

8.美味しいイワシの見分け方

~鮮度と品質を見極める目~

【鮮度の良いイワシの特徴】

  • 目:透明で澄んでいる(濁りは鮮度落ちのサイン)
  • 体:ハリがあり、硬く締まっている
  • 鱗:銀色に光り、剥がれていない
  • エラ:鮮やかな赤色(黒ずんでいたらNG)
  • 腹:張りがあり、柔らかすぎない

【脂の乗りを見る】

  • 丸みを帯びた体つき → 脂が乗っている
  • 背が盛り上がっている → 旬の個体
  • 重量感がある → 身が詰まっている
 

9.イワシが教えてくれること

~小さなものをていねいに扱うという価値観~

イワシを扱うとき、人は自然と指先をやわらかくします。

崩れやすいから、優しく持つ。

小さいから、大切にする。

弱いから、工夫する。

 

この魚を通して、人は無意識に「小さなものに宿る大きな価値」

を学んできたのかもしれません。それは日本人の暮らしの根にある美意識であり、食文化を支えてきた静かな力です。

 
イワシ

おわりに

~小さく儚く、それでいて確かに文化を支えた魚~

イワシという魚は、華やかではありません。

主役でもありません。

 

それでも、日常を支えてきたという点ではとても特別な存在です。

壊れやすい体は、人に優しさを教え、

大量に群れる姿は、海の豊かさを伝え、

発酵文化は、暮らしの知恵を育て、

季節の変化は、海の時間を届けてくれる。

 

イワシを食べるという行為は、『ふつうの日をきちんと生きる』

という日本人の在り方そのもの。

 

食卓に置かれた小さな一尾の向こうには、海の光と、人の営みと、

長い長い文化の時間が、静かに息づいているのです。

いわしの大群