【野菜のコラム 第13話】
はじめに
売り場に並ぶれんこんは、切り口が見えるように置かれていることが多い。
白く、規則正しく並んだ穴。
それだけで、どの野菜か見当がつく。
れんこんは、形そのものが、記号のように受け取られる、珍しい存在です。
料理を思い浮かべる前に、まず構造に目がいきます。
スーパーマーケットの蛍光灯の下、ラップに包まれたその断面は、自然の産物でありながら、どこか工業製品の部品を思わせる整然さがある。
キャベツやレタスといった葉物野菜が、自然界の揺らぎや有機的な曲線をそのまま陳列棚に持ち込んでいるのに対し、れんこんの造形はどこか数学的で、建築的です。
誰かが定規とコンパスで設計したかのような、整った配置。
切り口がこちらを向いているだけで、文字情報を読む前に、それが何であるかを直感的に理解できます。
具体的な「きんぴらの味」や「煮物の香り」を脳裏に描くその一歩手前で、まずあの幾何学的な「構造」が視覚に入ってくるのです。
本稿では、れんこんという野菜を、単なる「食感の良い食材」や、おせち料理の「縁起物」として消費するだけでなく、都市の食卓に持ち込まれた一つの「構造体」として捉え直してみたいと思います。
泥深い沼地で育つこの野菜が、なぜ洗練と効率を求める現代の都市生活の中で、独自の立ち位置を保ち続けてきたのか。
その理由を、あの特徴的な空洞、すなわち「余白」の機能を通して、じっくりと考えていきます。
目次
1. 歴史と由来
れんこんは、ハス(蓮)が泥の下で太らせた部分を、食用としていただくものです。
その来歴を思い浮かべると、語りの筋道はいくつもあり、「ここが始まりだ」と一言で片づけにくいところがあります。
アジアの広い地域で、古くから水辺の暮らしと結びついてきた野菜だと言われています。
水面には清らかな花を咲かせ、水底の泥の中には太い茎を走らせる。
その対比的な姿は、土地ごとの物語の中で、清浄さや生命力の象徴として語り継がれてきたようです。
日本においても、湿地と人の暮らしが近い場所ほど、長い時間をかけて生活の中に溶け込んでいったのではないか。
そう推測することもできます。
日本の風土や水辺の暮らしの手触りの中で、目立つことなく受け入れられ、長い時間をかけて生活に定着してきた存在と言えるでしょう。
名称についても興味深い点があります。
「蓮の根」と書きますが、実際には『根』というより、泥の下で太くなった『茎のような部分』です。
しかし、生活者の実感として泥の中深くに位置し、植物全体を支えているその姿は、生活の中で「根」と呼びたくなるものだったのでしょう。
学術的な正しさよりも、生活の中で感じる実感が優先された。
だから、そのまま定着した名前です。
そこには、この野菜が図鑑の中の植物としてではなく日々の糧として生活者の手によって長く受け止められてきた、積み重なってきた時間の厚みが、ふと垣間見える気がします。
2. 使われ方の輪郭
現代の都市生活において、食材が選ばれ続けるには、ある種の「特徴」が求められます。
その点において、れんこんは独特の適性を持っていました。
包丁を入れると、あの構造が見えてきます。
火を通しても、輪郭を保ちやすい。
皿の中での役割も、比較的はっきりしています。
プロの料理人にとっても、家庭の料理担当者にとっても、れんこんは「料理の中で役割が見えやすい野菜」だと言えます。
流通の現場においても、この形状がどのように使われるか、その需要が想像しやすい。
この「計算の立ちやすさ」は、不確実な日々の中で、安心材料として働く場面があるのかもしれません。
不揃いな外見とは裏腹に、その内側には規格化された工業製品にどこか似た、揺るぎない安定感が感じられるのです。
3. 他野菜との対比・立ち位置
同じ土の中で育つ根菜類と比較してみると、れんこんの特異性がより一層際立ちます。
たとえば、ごぼうは「線」として料理に深みと大地の香りを与え、じゃがいもや里芋は「面」や「塊」として広がり、煮崩れることで出汁と一体化しようとします。
大根は自らの色を薄めて、煮汁の色にすっと染まっていくように振る舞います。
対してれんこんは、そのどれとも異なります。
あえて言うなら、構造として意識されやすい野菜です。
食材である前に、確固たる形を持った部品のような存在。
他の野菜が味の染み込みやボリューム感で役割を果たすのに対し、れんこんはその配置と構造で皿の上の意味を決定づけます。
柔らかい煮物の中にれんこんが一つ入るだけで、全体の印象がぐっと引き締まる。
それは食材としての味の主張というより、建築における柱や梁のように、料理という建造物の骨格を支える役割に近いのかもしれません。
味覚の土台ではなく、物理的な構造の土台として機能する。
それがれんこんの独自の立ち位置です。
4. 視覚の通気性
これは単なる空洞ではありません。
皿の上において、視覚的な「抜け」をつくる、小さな窓のように働きます。
例えば、茶色いおかずがぎっしりと詰まったお弁当箱を想像してみてください。
そこにスライスされたれんこんが一枚あるだけで、ふっと息が抜けるような感覚を覚えます。
れんこんの穴は、背景にある食材の色を通し、光を通します。
この「向こう側が見える」という特性は、密度が高くなりがちな料理の盛り付けに、一瞬の呼吸や奥行きを感じさせます。
いわば、食卓の密度に小さな「抜け」をつくる。
丸いまま使えば車輪のような安定感を演出し、半月に切ればリズミカルな波を、乱切りにすれば力強い立体感を生み出します。
その造形的な強さは、料理人の意図を明確に反映するグラフィックデザインの要素に近いものがあります。
味がよく染みる、火が通りやすいといった調理上の利点以上に、この「視覚的な風通しの良さ」もまた、洗練された美しさを求める都市の食卓で、選ばれてきた背景の一つとして考えられるのかもしれません。
5. 主役ではないけれど、食卓を支える存在
6. 調理の特性
7. 食感と感覚(音・構造・視覚)
れんこんを食べるという体験は、味覚以上に、触覚と聴覚の体験と言えるかもしれません。
噛み入れた瞬間の、ある種の抵抗感。
そして、それを断ち切ったときに響く、軽快な音。
「シャキシャキ」「ホクホク」といった擬音で表現されることが多いですが、その根底にあるのはやはり「空洞」の存在です。
中が詰まっていない、その感じは、食べたときに不思議な「軽さ」として伝わります。
どれだけ厚切りにしても、どこか軽やかさが残る。
それは、あの穴がつくる『軽さ』が、口の中にも残るからかもしれません。
これは、料理の印象を過度に重くしないための重要な要素の一つとも言えます。
根菜料理特有の、どっしりとした重厚感を、その空洞によってふっと逃がす。
噛むたびに音が鳴り、リズムが生まれる。れんこんは、味だけでなく、振動と音によって「構造」を伝えてくる野菜です。
その感覚は、食事という行為を単なる栄養補給から、五感を使った楽しみへと引き上げてくれます。
8. 季節と文化
日本において、れんこんは穴の向こうが見えることから、「先を見通す野菜」として、祝いの席で語られることも多い存在です。
向こう側が見える穴の構造に、未来への展望を、その穴に託してきたのだとも言えます。
しかし、れんこんの面白さは、そうした「ハレ(非日常)」の日の顔を持ちながら、同時に「ケ(日常)」の食材としても深く浸透している点にあります。
特別な意味を背負うこともできるが、意味を背負わずにただの美味しい惣菜として振る舞うこともできる。
一つの意味に縛られないこの柔軟さこそが、特定の季節や行事に限定されず長く広く使われてきた要因ではないでしょうか。
象徴であり、実用品でもある。
その二面性を軽やかに行き来できる自由さが、れんこんにはあります。
9. 現代における価値
結び
それでも、包丁を入れた瞬間に現れるあの幾何学的な構造は、台所において確かな存在感を放ちます。
れんこんは、空洞を抱えているぶん、結果として、いろいろなものを通しやすい野菜です。 詰め込まない。
塞がない。
先を残す。
その身に空洞を抱えることで、風や水、熱や味が、内側をすっと抜けていく。
都市生活が複雑になり、日々の情報の密度が高まるほど、こうした「余白」を内包した存在が、ふと心に残る場面も増えていくのかもしれません。
食卓の上に置かれたその白い断面は、過密な日々に一呼吸置くための、小さな窓のようなものなのかもしれません。
れんこんは、そのことを何も語らず、そのままの姿としてそこにあります。