【魚コラム 第2話】
アジは、どんな家庭の食卓にも自然に登場してきた魚です。
塩焼き、南蛮漬け、アジフライ、干物。
特別な日だけではなく、「今日の晩ごはん」にそっと並ぶ一皿として、長く親しまれてきました。
身近すぎて、あらためて語られることの少ない魚ですが、
その名前の由来や旬、産地、栄養、そして暮らしとの結びつきを見ていくと、
日本人の食文化の『土台』を支えてきた存在であることが見えてきます。
この第2話では、そんなアジの姿を、
歴史・栄養・日常の風景などを交えながらたどっていきます。
目次
1.アジの名前の由来は「味が良い」から?
~語源に込められた、日本人の素直な感性~
もっともよく知られているのは、驚くほどシンプルな説です。
「味(あじ)が良い魚だから、アジ。」
江戸時代の学者・新井白石が著した語源辞典『東雅』にも、
アジは「味のよい魚」であることから名づけられた―という解釈が記されています。
もちろん、
・群れをなして『集まる(あじる)』性質から来た
・古語の「あぢ」から転じた
といった説もあり、学術的には一つに断定できるわけではありません。
それでもなお、「味の良さにちなむ」という説が根強く語られているのは、
実際にアジを食べてきた多くの人の実感に、どこか重なるところがあるからかもしれません。
脂がほどよくのり、クセがなく、それでいてしっかりとした旨みがある。
派手さはないのに、「これはおいしい」と素直に感じさせてくれる味。
アジという魚に「味の良さ」という評価をそのまま名前として与えた先人たちの感覚は、
日本人の味覚の原点を映していると言えるでしょう。
【参考文献】 新井白石『東雅』
2.日本各地で愛される、アジの産地
アジ(主にマアジ)は、日本周辺の広い海域に生息しています。
太平洋側、日本海側、瀬戸内海、東シナ海。
そのどこでも水揚げされるからこそ、地域ごとに「うちのアジがいちばん」という誇りも育ってきました。
代表的な産地と特徴を、いくつか見てみます。
● 長崎県
日本有数のアジの水揚げ量を誇る地域。五島列島や平戸周辺など豊かな漁場があり、回遊するアジも、沿岸近くにとどまる“瀬付きアジ”も豊富です。
● 大分県(関アジ)
豊後水道の速い潮にもまれて育つ「関アジ」は、全国的に知られるブランドアジ。
身が締まりつつ脂もきれいにのり、上品でありながら力強い旨みが特徴です。
● 福井県・石川県(日本海側)
冷たく澄んだ日本海で育つアジは、身質がしっかりしていて、
焼き物やフライでその力強さを発揮します。
● 和歌山県・三重県(紀伊半島周辺)
黒潮の影響を受ける海域で水揚げされるアジは、香りがよく、脂も程よくのっています。
こうして見ると、アジは「どこにでもいる魚」でありながら、
実際には「どの海にも、その海らしいアジがいる魚」だと言えます。
さらに、アジにはさまざまな種類があります。
最も一般的なのは「マアジ」で、しっとりとした甘みと上品な脂が特徴。
ほかにも「ムロアジ」「シマアジ」などがあり、
同じ『アジ』でも住む海や回遊する水域によって、味わいや香りが微妙に異なります。
3.アジの旬はいつ?
~季節で変わる味わいの役割~
「いちばんおいしい時期」に注目すると、その姿が少し違って見えてきます。
一般的に、マアジの旬は 初夏〜夏(おおよそ5〜7月) とされています。
● 初夏〜夏(5〜7月):脂が最も乗る時期
・身にしっかり脂が入り、しっとりとした食感
・刺身やたたき、寿司など、生で食べる料理で真価を発揮
・皮目に光る脂が美しく、香りも豊か
この時期のアジは、
「アジって、こんなにおいしかったのか」と、改めて驚かれることも少なくありません。
一方で、秋から冬にかけては、水温の低下とともに身が締まり、
脂はやや穏やかになりつつも、うま味がはっきりと感じられるようになります。
● 秋〜冬:身が締まり、料理の“芯”になる時期
・アジフライ、南蛮漬け、塩焼きなど、加熱調理で力を発揮
・さっぱりとしながら、うま味の輪郭がくっきり
・日常の料理の「基準」として安定したおいしさをもたらす
初夏〜夏のアジは「脂ののったごちそう」、
秋〜冬のアジは「料理全体を支える、安定したおいしさ」。
同じ魚でも、季節によって役割が変わる。
その変化を知ることは、「季節を食べる」感覚を育ててくれます。
4.アジの干物に宿る、風土と時間
~背開きと腹開きが語るもの~
アジの干物は、日本の保存食文化の象徴のひとつでもあります。
塩をあて、開き、海風や日の光にさらして水分をほどよく飛ばす。
それだけの工程で、アジのうま味はぎゅっと凝縮され、
生とは違った深みと香ばしさを持つ一枚に生まれ変わります。
干物の「開き方」には、地域的な違いもあります。
・関東などで多い:背開き
…見た目が整いやすく、焼いたときに形がきれいに仕上がるとされています。
・関西や伊豆などで見られる:腹開き
…内臓を処理しやすく、脂が残りやすいという理由が挙げられます。
同じアジでも、
どんな塩を使うか、どれくらい干すか、どんな風が吹くか。
それらによって、香りも食感も少しずつ変わっていきます。
アジの干物は、魚そのものの味だけでなく、
その土地の風や湿度、日差しといった「風土そのもの」を写し取った食べ物だと言えるかもしれません。
5.アジの栄養価
~日常の魚が、からだを静かに支えている~
栄養面でも非常に優れた食材です。
真アジ(皮つき生・可食部100gあたり)の主な成分は、おおよそ次の通りです。
・エネルギー:約112kcal
・たんぱく質:約19.7g
・脂質:約4.5g
・カルシウム:約66mg
・カリウム:約360mg
・マグネシウム:約34mg
・亜鉛:約1.1mg
・ビタミンD:約8.9μg
【参考文献】 文部科学省『日本食品標準成分表2020年版(八訂)』
それぞれ、からだの中では次のような役割を担っています。
● たんぱく質
筋肉・臓器・皮膚・髪など、身体そのものをつくる材料。
アジは脂質が極端に多すぎない一方で、良質なたんぱく質がしっかり摂れます。
● DHA・EPA(オメガ3脂肪酸)
いわゆる『青魚のオイル』としてよく知られるオメガ3脂肪酸を多く含む
血液をさらさらに保ち、生活習慣病の予防に役立つとされています。
また、DHAは脳の働きや記憶とも関わりがあると考えられています。
● ビタミンD
カルシウムの吸収を助け、骨の健康を支えます。現代の日本人に不足しがちな栄養素のひとつです。
● ビタミンB群
糖質や脂質をエネルギーに変える代謝を助け、疲れにくいからだづくりを支えます。
● カルシウム・マグネシウム・亜鉛
骨や歯、神経、味覚、免疫機能など、「体の調整役」として重要な働きを持つミネラルです。
特別なサプリメントや高価な食材を用意しなくても、
日々の食卓にアジが一皿あるだけで、からだは静かに支えられている。
そんな、さりげない頼もしさが、アジという魚にはあります。
6.アジがアジフライになるまで
~静かな視点をもつ魚の、ささやかな独白~
といっても、特別な壮大さはありません。
群れの流れに身を委ね、
潮のご機嫌を伺いながら、
その日いちばん穏やかな場所を選んでいただけです。
ただ、海の世界には昔からこういう言い伝えがあります。
「最後まで落ち着いていた者ほど、陸に上がってから忙しくなる」
どうやら私がそれに当たったようで、
ある日、気づいたら台所にいました。
最初にされるのは「三枚おろし」。
この段階で私は悟りました。
「どうやら、私は今日も必要とされているようだ。」
次に塩と胡椒の整った判断がくだり、
小麦粉という舞台衣装をまとい、
卵という照明を浴び、パン粉という観客のざわめきに包まれます。
人間の側は「衣(ころも)」と呼ぶそうですが、
私は密かにこう呼んでいます。
『最も静かで最も短い、再デビュー準備期間。』
そして、いよいよ油へ。
あの音は、私たちにとって
驚きでも恐れでもなく、どちらかといえば…
『ああ、これは私の最終発表なのだな』
という心境に近いものがあります。
油は正直です。
迷いも虚勢もすべて浮かび上がらせる。
けれども、そこを通った瞬間、
私はアジではなくアジフライとして
まったく別の役割を手に入れます。
不思議なもので、
海では「目立たないこと」が生存戦略だったのに、
陸では「黄金色に輝くこと」が評価される。
場所が変われば、価値の基準も変わる。
それを私は誰よりも体現しているのかもしれません。
最後に、皿にそっと置かれるとき、私は思うのです。
「ここまで来るのに、私は一度も『自分から前に出ます』と言わなかった。
けれど、必要な人の前には、結局こうして届くように出来ているらしい。」
そしてレモンが添えられたら、
それはひとつの合図。
『あなたの今日を、少しだけ良い日にする役目。』
アジとして生きてきた頃には想像もしなかったけれど、
悪くない終着点です。
7.朝市とアジ
~『生活の魚』が育てた日本の台所文化~
海の中だけでなく、市場や朝市の風景にも深く根づいています。
夜明け前のまだ薄暗い時間、
氷の音、せりの声、水しぶきの音が交じり合う市場で、
銀色に光るアジがきれいに並べられる光景は、
多くの港町にとって「一日の始まり」の風景です。
その前で交わされる会話は、どれも実用的で、どこか温かいものです。
「今日は脂、ようのってるよ。」
「これは刺身いける。」
「こっちはフライにしたら子どもが喜ぶよ。」
アジは、「今夜の献立をどうしようか」と考える人にとって、
いちばん身近な選択肢であり、
台所の想像力を刺激する存在でもあります。
特別な日にだけ登場する魚ではなく、
『ふつうの日』の真ん中にいる魚。
アジが市場に並ぶことで、その地域の台所の風景は、
少しだけ豊かに、少しだけ明るくなります。
8.アジが教えてくれる「さりげない価値」
~忙しい時代に、静かに立ち戻れる一皿~
おわりに
~アジは、暮らしそのものを語る魚である~
派手なドラマではなく、『暮らしの積み重ね』です。
・「味が良い」という素直な名前の由来
・日本中の海で獲れる身近さ
・季節ごとに変わる味わいの表情
・塩焼きやフライとして家庭料理の中心を担ってきた歴史
・干物として受け継がれてきた保存の知恵
・日常の健康を支える、バランスの良い栄養
・朝市や市場で交わされる、台所と海をつなぐ会話
・そして、アジフライとして静かに“誰かの一日”を支える役割
こうした要素が折り重なり、
アジはいつの間にか“日本の食卓そのもの”を語る魚になっていました。
一匹のアジの向こう側には、
漁をする人、運ぶ人、並べる人、選ぶ人、料理する人、そして食べる人
たくさんの暮らしが連なっています。
今日、食卓にアジの一皿を並べるとき、
その静かな存在の中に、日本の台所の長い時間が流れていることを、
ふと、思い出してみるのもいいかもしれません。